アガイ研ブログ

Agai(堕武者+ultraviolence+)の個人ブログです。主に将棋、音楽、プロレス、レトロゲームについて書きます。将棋界では練習対局のために集まることを「〇〇研」と称することが多いことから、タイトルに名付けました。

「天気の子」2回目を観て気付いたこと(ネタバレ有)

個人的には産まれて初めて、同じ映画を二度映画館で見る事となった「天気の子」。

今年で38歳のオジサンが見事に、ボーイミーツガールに心をかき乱されまくりました。多分あと2回くらい観ると思います。

パンフを買い、小説版を買い、普段は買わない日経エンタテインメント(クリアファイルが付いてた)やNewtypeなども買って読み、なぜ自分がここまで感情を揺さぶられたのかを知るため、考えたことや、印象に残った事を順番ランダムに書いていくことにしました。

※8月7日追記:ヒロインの名前が全て「雛菜」と誤っておりました。お恥ずかしい。「陽菜」に修正しました。

・帆高が家出した理由

 本人の口からは「何となく息苦しくて」としか語られません。パンフレットでのインタビューで新海監督は「過去のトラウマが主人公の行動を決定する話にはしたくなかった」と語っていますが、確かに物語終盤で帆高が実家への帰宅を頑なに拒否する理由は雛菜と一緒に居たいからであり、ここで「あんな家に二度と戻りたくない!」という理由が入り込んできたら単なる頑迷さとなってしまうのかもしれません。

二回目の鑑賞で初めて、物語冒頭でフェリーに乗る帆高の顔に絆創膏や湿布が貼ってあることに気付きましたが、そのことが直接家出の理由を表しているかどうかは謎です。

(帆高の回想で、必死に自転車を漕ぎながら光の指す方向を目指すシーンがあり、その時には顔にいくつもの赤い線が入っていたので、草木が生い茂る中を自転車で疾走した際に出来た擦り傷なのかもしれません。だとしたら自転車で光を追った後すぐにフェリーに乗ったのですね)

※8月7日追記:小説版を読み返したところ「あの日、父親から殴られた痛みを打ち消すように、自転車のペダルをめちゃくちゃに漕いでいた」という表記がありました。という訳で見当違いということで… ちなみに映画の中では、親との出来事などは一切出てきません。このあたりの説明の省略も、ただただ英断だなあと思います。

・陽菜の母親は天気の巫女なのかどうか

 これも2回目で初めて気づいたのですが、陽菜がずっと身に付けていて、最終盤で首から外れるチョーカーは、最初は母親の腕に付けられていたものなんですね。ある種能力の象徴のように描かれているチョーカーを母親から受け継いでいるわけですが、特にそれ以上の描写はありません。

・なぜ鳥居をくぐると晴れ女の能力を身に着けられるのか

 代々巫女の宿命を背負った家庭、なんていうのはいかにも考えられそうな設定ですが、特にそういう説明は作中でありませんでした。陽菜が不思議な力を身に着けられたのは、あくまで代々木の廃ビルで祈りながら鳥居をくぐったからで、それ以上でもそれ以下でもなさそうです。

 仮にこの「なぜ能力を身に着けられるのか」について深く説明しようとすると、却って物語の主題がぼけてしまうのでしょうね。

・代々木の廃ビルの鳥居に置いてある、ナスとキュウリの精霊馬は誰が置いたのか

 精霊馬は中盤の立花家でのお盆のシーンでも出てくるので、この世と彼岸を結ぶ鳥居の象徴として置かれているとは思うのですが、誰が置いているの?晴れ女の能力付与に関わっている人は他にもいるの? という疑問は解消されませんでした。

・陽菜は何故、頑なに児童相談所の保護を拒むのか

 本作最大の疑問の一つがこれです。児相に対してトラウマや不信感があるのでしょうか。必ずしも姉弟がバラバラに保護されることもないと思うのですが…

 陽菜たちが暮らすアパート@田端の室内には、綺麗な手工芸品や写真が沢山飾られていました。それらはすべて亡くなった母親の手作りで(陽菜のチョーカーも)沢山の想い出が残るこの部屋を出たくないのかな? とも思ったのですが、終盤ではあっさり家を捨てて夜逃げするのでこの推理は違うなと。

 これも、帆高の家出理由と同じで、ここの整合性に時間を使って説明を尽くすよりは、設定上の構図だけを示して(陽菜が児相の保護に同意してしまったら、帆高は「そんなところに行くな!」と説得して逃げないといけません)、物語の本題に力点を置こうということなんだろうと思いました。

・晴れ女の祈祷に関するリスクの整理

(1)祈るほどに、晴れ女の身体が透けていってしまい、最後は天(彼岸?)に召されてしまう

(2)祈ることで一時的に晴れるが、その後で更なる豪雨が一帯を襲う

(3)異常気象を止めるためには、晴れ女が人柱となって天に召されなければならない

ここで疑問となるのは(2)と(3)の関係で、雨の塊や空から降ってくる魚のような水滴、真夏の雪などの異常気象には、晴れ女能力使用の副作用によるものなのか、それとも人類全体が積み重ねてきた環境破壊の影響なのか、が気になりました。

 もし、晴れ女の祈祷のみが異常気象の原因であるならば、単に陽菜が能力使用を止めるだけで東京は水没の危機に晒されることはないのに、陽菜たちがリスクを考えずに無邪気に能力を濫用した結果、街を危機に追い込んでしまったことになります。

 勿論そういう側面もあるのでしょうが(でなければ帆高の後悔=陽菜を救う使命感も生まれない)新海監督のインタビューを読むと、晴れ女が能力を使おうが使うまいが、天候のバランスは崩れてきていて、様々な異常は所与のものとして発生していたのかな、という気がしました。

・ラストシーン前で、なぜ帆高は自分に都合のよい考え方をあえて捨てたのか

空の上の世界を何となく信じているような風もある須賀ですが、3年ぶりに東京へやってきた帆高に対しては「自分たちが世界のかたちを変えた、なんていう思いは捨ててしまえ。世界なんて元から狂ってるんだからよ」とアドバイス? します。

帆高にとって重要なことは陽菜が彼岸から戻ってきたことであって、世界が自分たちのせいで変わったかどうかは二の次な気もするのですが、自分たちが行った選択による影響の全てをしっかりと認識することが、自分たちの存在を肯定するために必要だったということなのでしょう。

・ラストシーンで、陽菜はなぜ桜の木の前で祈っていたのか

 「もう晴れ女じゃない!」と帆高が宣言し、晴れ女の象徴であるチョーカーも外れたのに、雛菜にはまだ祈ることで天気を晴れにする力があるようです。人柱になることは拒否したのに(東京の水没という代償を払って!)、晴れ女としての能力は身に着け続けるということがあるのかな?と思いました。

 ただこのシーンも、監督のインタビューを読むと、散々の検討を経て、「僕たちは、大丈夫だ」というセリフも含めて今の形になったそうなので、その辺の疑問は織り込み済みなのだろうと思いました。確かに絵として考えたら、3年間会うことを待ち焦がれた彼女は、やっぱり目を閉じて祈りながら待っているべきだと思います。

 

ツッコミどころというと尊大な印象ですが、以上が私の抱いた主な疑問点でした。

じゃあそんなことばかり考えながら映画を見ていたのかというと、夏美の胸を覗くシーンでニヤニヤしたり、拾ってきたアメ(猫)のリアクションでほっこりしたりしつつ、終盤から最終盤にかけては2回とも、涙をボロボロ流しながら観ていました。整合性の説明をコマゴマとすることは、物語で感動を観客に与えるためには、必ずしも必要でないのだなと思いました。もちろん涙腺を刺激する類型的なシーンが連続していた、ということももしかしたらあるのかもしれませんが、監督が言うところの「全てが変わってしまった世界の中で、だから何だと開き直って生きてゆく」二人の姿が、それだけ心に響いたのだと思いました。

10代の頃の、新宿の街に関する個人的な思い出が作中の描写とマッチする部分なんかもあったりしたので、あの鬼のようなタイアップ群の話を含めて、いずれ書きたいと思います。